1900年創立より現在までの、本学の歴史をご紹介します。

女子美の成り立ち
女子美が目指したのは、女子の新しい生き方を世の中に示すことでした。
明治の頃、当時の社会は女子の理想像を「良妻賢母」としていました。しかし女子美は、妻や母であること以前に、一人の女性として、そして一人の人間として生きること。そして、自分の中に育んできた美術の力によって、心豊かな毎日を生み出していく人間となり、社会を、文化をも支える人間になることを、学校の目標としていたのです。
こうした女子美の革新的な考えは、当時の人々に、少し先の新しい時代を見据えた生き方を選ぶ、はつらつとした女子の姿を想像させたに違いありません。そしてこの校風は永く受け継がれ、「美術をとおして、我が国の文化に貢献する有能な女性を育成する」という現在の教育理念に結実しているのです。
女子美をつくったふたりの女性
19世紀最後の年、1900(明治33年)に創立した女子美。街ゆく人の日常着はまだ和服であり、女子教育は始まったばかり。女性が自分の好きなこと……たとえば美術を専門的に学ぶことなど考えられなかった時代に、日本で初めての女性のための美術学校として女子美は誕生しました。
現在も受け継がれる3つの建学の精神「芸術による女性の自立」「女性の社会的地位の向上」「専門の技術家・美術教師の養成」には、創立者である横井玉子の広い視野と男女平等の精神が表れています。
そして女子美設立に情熱を燃やしながらも、設立後まもなく病に倒れた玉子の想いを、玉子の最大の理解者であり支援者であった佐藤志津が引き継ぎました。
そんな女子美は、明治から大正、昭和、平成、令和と時代が変わっても、変わらず女子のための美大であり続けています。

創立者 横井玉子
自身も洋画家から絵画を学んだ経験を持ち、 美術に強い関心を寄せていました。東京美術学校(現・東京藝術大学)で教鞭を執っていた藤田文蔵 (女子美設立後は初代校長に)とともに、女子美設立に情熱を燃やしましたが、 設立後まもなく病に倒れてしまいました。

初代校主・第2代校長 佐藤志津
玉子の最大の理解者で支援者。玉子亡きあと、初代校主、2代目校長に就任し、財政難に陥っていた学校の立て直しに力を注ぎました。
沿革
横井玉子・藤田文蔵らによって私立女子美術学校創立
弓町校舎(現東京都文京区)において開校
藤田文蔵、初代校長に就任
普通科・高等科・研究科・専修科設置
研究科以外の各科に日本画科・西洋画科・彫塑科・蒔絵科・編物科・造花科・刺繍科・裁縫科を設置
佐藤志津、 校主に就任
前年焼失した弓町校舎に代わって菊坂校舎 (文京区) 落成、移転
私立女子美術学校附属高等女学校 開校
附属高等女学校を私立佐藤高等女学校と改称
私立女子美術学校に組織変更
私立女子美術学校を女子美術学校と改称
創設期

女子美の始まりは、東京都本郷区(現文京区)弓町に建てられた、木造の小さな2階建て校舎。その後、火事で焼失した弓町校舎に代わって、菊坂校舎が建設されました。現在杉並キャンパスがある、杉並区和田に校舎を移転したのは1935(昭和10)年です。

横井玉子がデザインした「女子改良服」。1901(明治34)年に発表されたものの、その後まもなく玉子が亡くなってしまったため、実現には至らず、幻の制服と呼ばれています。

初代校長の藤田文蔵がデザインした校章。三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)がモチーフになっています。

本画科・西洋画科彫塑科・蒔絵科・編物科・造花科・刺繍科・裁縫科の8専攻でスタートした女子美。和服姿で制作に取り組む姿が、とても印象的です。

大正3年頃
専門学校に昇格
杉並校舎 (杉並区) へ移転
学制改革により佐藤中学校発足
学制改革により佐藤高等学校発足
学制改革により女子美術大学発足
財団法人を学校法人に組織変更
女子美術大学短期大学部併設
佐藤高等学校・佐藤中学校を 女子美術大学付属高等学校・中学校と改称
女子美術大学短期大学部を女子美術短期大学と改称
女子美生の変遷

昭和初期

昭和11年頃

昭和29年頃
相模原キャンパス(相模原市) 開設
大学院美術研究科修士課程設置
大学院美術研究科博士後期課程設置
女子美術大学短期大学部と改称
創立100周年記念棟完成
女子美アートミュージアム (JAM) 開館
女子美術大学研究所、女子美オープンカレッジセンターを設置
大学院美術研究科修士課程を大学院美術研究科博士前期課程と改称
染織文化資源研究所を設置